綾瀬への想い

綾瀬の人達に育てられました、
だから今、
綾瀬の人に自分ができることを返したい

「幼い頃の綾瀬市の記憶は?」と聞かれ、真っ先に思い浮かぶ景色は、厚木基地から飛ぶたくさんの飛行機空でした。近所の大人たちと一緒に畑の仕事を手伝いながら、綾瀬の空を飛ぶ、たくさんの戦闘機をみてはしゃいでいました。
改めて考えてみると、綾瀬市はとても不思議な街です。
「駅がない街」と周りには思われがちですが、住んでいるからこそわかる、街にあふれる多様な価値観そして歴史。私はそんな不思議な街で、たくさんの人に見守られ、大きくなりました。
30歳になったくらいのころ、私は消防団と自治会体育部に入りました。決して優等生ではなく、遊びに遊んでいた私のことを、優しく温かく接してくれた地域の人たちへの恩返しをしたいと思ったのです。きっかけは、よく通っていた後輩が経営していたショットバーが閉店になったから…という背景もあるのですが。ただ、そのことをきっかけに、より高齢に向かっている地域の住民、地域の店舗などに意識が向くようになったことが大きいです。

そして、この消防団と自治会体育部で様々な地元の人たちに出会いました。
綾瀬を守りたいと思っている人たち、もっと面白いことをしたいと思っている人たち。綾瀬という街を軸に、行き来と活動している人たちに刺激を受けました。
そしてここでの出会い活動が、議員になる決意を強く与えてくれました。


ある年、地元の市議会議員が高齢を理由に引退するという声を聴きました。そしてこの声を受け、私は綾瀬市議会議員になる決意をしたのです。39歳の時でした。

綾瀬を防災力ある街にする

3.11をきっかけに明るみになった綾瀬市の防災力の弱さ
消防団の経験を活かし、防災につよい綾瀬を目指す

議員になろうと決めたとき、一番力を入れたいと思ったのは防災でした。
というのも、2011年に起きた3.11。この時私は消防団と自治会体育部にいましたが、綾瀬市の防災力の弱さを感じたのです。
まず、大きな揺れ、停電が起きたときなど、分団は本署と連携をとり行動をとらなければならないのですが、(当時は)それがまったくできていませんでした。
まず消防本署に連絡がつかなかったのです。市役所にもつながりませんでした。
そのため、市役所や消防本署と連携が付かないまま、単独行動をせざる得ませんでした。
また、避難所開設機能の決まりもなく、共助の部分がまったくと言っていいほどできていませんでした。
私はまず行政がとるべき、共助の部分の仕組みの必要性を訴え、議員時代にも取り組んでいきました。

具体的な取り組みはこちら

災害時に必要なのは、共助と自助。その共助の部分は行政が強化していくのが一番です。
人を大切にしたからこそ、万が一の時守れる街にしたい。
そんな思いから私は防災に力をいれて活動をしてきました。

未来の綾瀬市にできること

綾瀬に「駅」を
道の駅構想

綾瀬には「駅」がありません。しかし、今とても面白い構想があるのをご存じですか? それは「道の駅」です。 2023年、「道の駅」は日本全国で地域おこし、観光資源の中心的存在となってきています。 従来の車がただ休憩する場所から、旅の目的地であり、地域の盛り上げの場にもなってきているのです。 ロケ地として聖地としての観光素材はあるものの、立ち寄り場がなかった綾瀬市にとって、 道の駅構想は新たな光になります。 何かを変えるときというのは、必ず摩擦は起きます。 けれど、誰かが火の粉をかぶらないと次の世代にすごしやすい街を残せないと私は思います。 道の駅はまさに綾瀬の令和の開国になると考えます。

笠間のぼる 公式アカウント

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